「ことばへの気づき」への気づき

 某誌に載せる原稿を書きました。名前と学校名が出るので、ボスにも原稿を見てもらう。でもそうなると、なんだかいろいろ気を遣ってしまって、すごく無難な文章になってしまったような気も…。せっかくの機会なのになぁ。

 とはいえ、ブログでも最近思うように文章が書けていない気がします。思いの外、いろんな方が目を通してくれるようになって、自分でもなんとなくブレーキをかけている感覚があります。でも、匿名(といえば匿名)でさえ思ったことが書けないんじゃ、意味がないよなぁと結構思い悩んで来ましたが、少しずつ心を解放してあげようと思っています。今後、思ったままに書くようにしますので、矛盾や変容が見られるかも知れませんが、それも私の変化・成長の一部と思って、お赦しください。コメントやメールでのご意見等は喜んでお受けいたします。

 で、最近考える「ことばへの気づき」への気づき。

 「英語教育よりも言語教育を」というお話を何度か伺いました。本も何冊かだけですけど、読みました。子どもたちの言語力について、「もっと豊かにしたいなぁ」と思うことは、普通に小・中の教員をしていると感じることが多いと思います。何でも単語だけで会話を成立させようとする子どもたち。形容詞を多く知らない(使わない)子どもたち。ことばの使い方でトラブルになる子どもたち。

 個人的には、小学生を取り巻く言語環境をもう少し豊かにできないものかなぁと感じています。小1〜小6まで在籍する小学校では、先生の話し方やボキャブラリーもどうしても低学年に合わせがち。もちろんいろんな場面で、文章のまとめ方、発表の仕方などを指導しているとは思いますが、中学校教師から見ると、「もっとレベルの高いことをやらせてもいいのでは?」とも思ってしまいます。ちょっとフォーマット的なものが多すぎるような気がします。小6になって「これから、1時間目の、授業を、はじめます!」「はい!」とか声を揃えてやっているのは、(きっと生徒指導的な意味もあるんだとは思うんだけど)いかがなものかなぁと思います。もっと、自分のことばで話させる機会があってもいいと思います。発達段階による難しさがあるなら、小グループの中での発言を増やすなど、工夫はできそうです。

 なにより、先生方の話し方がちょっと「遠い感じ」がします。お手本になるように、大きな声で、はっきりと話しているんだけど、それがかえって「遠い感じ」になってる。先生方も自分のことばじゃないんだよなぁ。男女関係なく「さん付け」で名前を呼んでいるのも、その距離感を伝えている一因かも。なんか病院で呼び出しされている感じ。中学校に来ると、いきなり呼び捨てだったり、「さん・くん」付けだったりするのも、子どもたちには大きな「中1ギャップ」でしょうね。

 だから、小学校段階で何かしら「ことば」を意識する活動が仕組まれていくことには賛成です。国語だけじゃなく、いろんな教科でことばを使って、表現したり、受信したりする機会があってほしいです。でもさ、それって、教師の感受性や表現力に依るところが大きくて、もっと言えば、授業じゃなくても日頃のやりとりの中で伝わっていくことだと思うんです。

 例えば、うちの生徒たちってとてもことばに敏感です。同音異義語が大好きで、ことばをうまく使った冗談や表現が上手いなぁと思う子たちが多い。それって、日頃から「ことば」を扱うものに興味を持っているからだと思います。例えば、少し前から(ぼくのせいでもあるんだけど)一部の生徒たちは「ラーメンズ」に夢中です。彼らのコントは、まさにことばの面白さを体感できるものだと思います。こういう授業以外での言語環境って、学校以外での生活にも影響するからかなり大きいと思うんです。(といって、感染源の責任を転嫁しようとしている…?)

 小学校での英語活動に置き換えるものとして「ことばへの気づき」が語られることもあります。でもそれって違うような気がします。外国語としてふれることで、初めて気づける「ことばへの気づき」があると思います。もちろん、小学校での英語活動が紋切り型の会話パターン暗記で終わってしまうことや、教える環境が整っていないことに不安もあります。なんでそのまえに中学校の英語を週5にでもしてくれないのか、という不満もあります。でも、そういったことと、ことばへの気づきは全然別のところにあるんです。私の場合は。

 私は先日の慶応大学でのシンポジウムには参加できませんでした。でも、何度か大津先生の発言を耳にして、「ことばへの気づき」を語る人が、自分の主張を通すために「ことば」を濫用して、あんな風に人を惑わしていいんだろうか、と感じてきました。ほとんど誘導尋問的な手法で、ことばで人を追い詰めていく様は、見ていて本当に残念に思います。語られていることは(ややマクロ的すぎるとも思うけど、この方は教育者じゃなくて学者だからまぁいいかと納得しつつ)おもしろいことも多いのにと思うからです。こういうのを見ていると、What to speakだけじゃなく、How to speakも大切なんだなぁと、やや逆説的に思ってしまうわけです。

 そこで、先日の中嶋先生の「結局現場が何をやるかだよ」ということばに戻ってくるわけです。日頃、生徒とことばのやりとりをしている我々教師の言語感覚が、(英語科や国語科だけじゃなく)大切になってくると思います。教育政策やシステムが変わっても、人が人を教えるということは(たぶん…)変わらないからです。

 ふぅ。思っていることはだいたい書けたかな。少しすっきり。本当に、自分の思っていることを「ことば」で伝えるのって難しいですね。