考えること、伝えること

 今日は失敗。

 こうやって失敗すると結構凹みます。特に、自分が教師として生徒に言い続けてきたようなことを、自分でやってしまったりすると、本当に凹みます。気が小さいんで、結構引きずるし。あーあ、まだ始まったばかりなのになぁ。

 そんなテンションの中、午後の論文指導では、それぞれの院生のリサーチクエスチョン(あるいはリサーチ計画)を具体的に検討していますが、今日は期せずしてM1の我々の研究題目も議題に。ええええ、英語で説明する自信ないです(涙) でもやるしかない。火曜日にテーマ案の大枠を考えて、水曜日にImaginary Abstractを書いておいてよかった。拙い英語でなんとか表現する。いっぱい直される。

 感じたこと。

 個人的には、リサーチクエスチョンや実験計画を考えるの、好きかも。いろんな条件を考えたり、実験案をデザインしたりするのは、想像以上にエキサイティングです。すごく面白い。とりあえずの題目はなんとか決まったので、これからいろいろな文献に当たっていく中で、きっとどんどん変化(進化?深化?)していくのでしょう。

 でもそれを英語で伝えるのが難しい。もしくは、伝えるように語ることは難しい。

 自分が頭の中で考えていることを、言葉を通して(しかも今回は外国語を通して)、それを読んだ(聞いた)全ての人に、ぼくが思い描いたのとまったく同じように伝えるって、すごく難しいことですね。みんな納得してくれていても、それぞれの頭の中にある絵が違ってたりする。ああ、そういう風にも取れるのか、とびっくり。でも論文って、それじゃダメなわけで、そういう当たり前のことに気づかされる時間でした。

 これって、「誰が読んでも何がどんな風になされたのか授業だったのかがわかり、その通りやれば同じ授業が再現できる指導案」みたいなもんでしょうか。もっといえば、「こうとしか演奏できない楽譜」みたいなもの。そうなるためには、徹底して論理的に書いていかなくてはならないわけで、前にいろいろなメディアに拙稿を寄せさせていただいた時も、真っ赤になって返って来たゲラを眺めながら、同じことを考えました。

 自分の言葉は(自分ではわかるから)みんなもわかっているものだと思い込んでました。自戒。Researchers should be modest.