「適切さ」にまつわるエトセトラ(1)

 たぶん今回のエントリだけではまとまらないので、シリーズ物にしておきます。ここんとこずっと頭の中をぐるぐる巡っている「適切さ」と「正確さ」を巡る問題。少し前に某所でつぶやいていたものをメモ代わりに採録。思考をそのままメモってるので堂々巡りはご容赦を。

 主にスピーキング場面などにおける「適切さ」のお話。

 「適切さ」と「正確さ」というのは、現場教員が評価に取り組む際に最も頭を悩ませるキーワードだと思います。活動やテストがどっちをねらいにしているのか、を明確にすることを指導案などでも求められます。でも真面目に考えれば考えるほど、よくわからなくなります。

 「適切さ」にフォーカスすれば、生徒のパフォーマンスは○か☓で判定されるのでしょうけど、その土台に載せるためには、まず最低限の「正確さ」をクリアしていることが前提で、そのラインをどこにするかの方がむしろ大切。だからどちらを中心に測るにしても、もう片方を無視することはできません。

 例えば、What did you do last night?という質問に対する答えを採点する場合、「適切さ」の観点で言えば、質問に対する答えとしての情報が伝達されていれば十分になる。"watched TV"みたいな動詞+名詞が引き出されて「意味内容」が最低限伝われば十分でしょう。

 でも”TV”とだけ応えたら、どうなんだろう? まぁTVスターでもなければ、「観る」に決まってるわけだから「伝わる」といえば「伝わる」けど、聞き手にどこまで解釈を要求してしまうと「適切さ」が失われてしまうのか。

 当然「じゃあ"watch TV"でもいいのか?」という疑問も浮上します。過去の話なんだから本当は過去形にすべきだけど、聞き手としては「文脈から過去なことはわかってるから、気にしない」とも言える。「時制」という情報は、おそらく「内容」「語順」に次いで3つ目くらいの大切な要素だと思うんだけど、「適切さ」として求めるラインにこれを含めるかどうかは、コンテクストとか採点者の感覚次第。

 ということは「適切さ」の基準を決定しているのは、実は「正確さ」にどこまでこだわるか、ということなんじゃないかと思うわけです。つまり「どのくらい不正確でも適切に内容が伝わるか」という話。

 反対に「正確さ」を○か☓で判定する場合を考えても同じようなことが起こります。まず前提としての「適切さ」をクリアしているのかどうかがまずポイントになります。回答した文が、お題にどれくらい沿っているか、どこまでなら許容されるか、という線引きが必要です。

 だから「正確さ」だけを取り出してを純粋に測りたいなら、そういうディスコースや応答の流れが気にならないように、「この文を正確に読みなさい」とか「この日本文を英文にしなさい」みたいな、内容に関して問わないような問題にすればいい。「適切さ」は切り離すことができるんです。でも「コミュニケーションの中で」とかいうコンテクストにこだわってると、そういう測り方はできなくなります。

 「適切さ」も「正確さ」も実は2つのレベルがあります。「最低限のレベル」と「できればすごいという+αのレベル」です。(国研の資料などはこの2つが混在してます。そのへんはまた次回触れます) この2つの観点は、

という風に、積み重なっている状態がイメージできます。今話題にしているのは、ともに「最低限」のレベルのお話です。

 この2つの関係について、個人的には国立教育政策研究所あたりがもう少し明確な定義を示すべきだと思います。特に「適切さを判断するために必要な最低限の正確さ」のラインについては、(そういうアカデミックな研究はいくらだってあるだろうから)広く共通理解された上で、個々の教員が評価について語りあるべきだと思います。そんな根幹部分をいち教諭に丸投げしちゃうのはどうかと思います。(まだ「評価規準」は示しても「評価基準」は一切触れないあたりにも同じような問題を感じています)

 とはいえ、「適切さを判断するために必要な最低限の正確さ」は場面や問題によっても変動する、というのも確かです。共通したラインなんか引けるのか、という問題もあります。というかむしろ、場面や問題を前にしてそれ(どれくらい不正確でも伝わるかというライン)をわかって応答できることが、まさに求められる「適切さ」だよなぁとも考えてみたり。

 この2つを分けて測定することがそもそもナンセンスなんじゃね?

 と堂々巡りをしたところで第1回終了。あ、たぶん何回か書きますけど、答えは出ない予感。

>>「適切さ」にまつわるエトセトラ(2)