「適切さ」にまつわるエトセトラ(2)

 少し前に書き始めた「適切さ」談義。自分の中でぐるぐる思考している過程を晒しててちょっと恥ずかしいんですけど、あくまで自分の為に(忘れないように)もうちょっと書いておきます。まとまりはない上に長いです。あしからず。

 前回の記事(「適切さにまつわるエトセトラ(1)」)では、適切さと正確さについて「最低限」のレベルと「プラスアルファ」のレベルの2段階で存在してるのでは、と私見を書いたんですけど、今回は学習指導要領と国研の出している評価資料ではどう書かれているかをチェックしてみます。あ、特に断りのない場合はすべて「話すこと」についてです。念のため。

 まずは(新)学習指導要領をチェック。

 (1) 言語活動
英語を理解し,英語で表現できる実践的な運用能力を養うため,次の言語活動を3学年間を通して行わせる。
イ 話すこと
主として次の事項について指導する。
(ア) 強勢,イントネーション,区切りなど基本的な英語の音声の特徴をとらえ,正しく発音すること。
(イ) 自分の考えや気持ち,事実などを聞き手に正しく伝えること。
(ウ) 聞いたり読んだりしたことなどについて,問答したり意見を述べ合ったりなどすること。
(エ) つなぎ言葉を用いるなどのいろいろな工夫をして話を続けること。
(オ) 与えられたテーマについて簡単なスピーチをすること。

 一番最初の(ア) では「正しく発音すること」が取り上げられています。ここは「正確さ」の話ですね。文科省が出した「学習指導要領解説」でこの項目を見てみると、意外にもこの「発音」について結構大きく取り扱っています。曰く、

改訂前に「英語の音声の特徴に慣れ」としていたものを,「英語の音声の特 徴をとらえ」としたのは,今回の改訂で小学校に外国語活動が導入され,音声面での 一定の素地があることを受けて一歩進めたものである。

この指導事項は,「話すこと」の(イ)から(オ)までの四つの指導事項の基礎となる技能を 身に付ける言語活動であるので,繰り返して指導し定着させることが大切である。その際, 日本語との違いを取り上げるなどして英語の特徴を理解させる工夫が必要である。

という感じ。あれ? ウチの先生のご指導そのまんまな感じのことを言ってたんですね。ホント意外です。なんだ文科省も「正確な発音」推しだったんじゃん。

 その割には国立教育政策研究所の評価に関する参考資料では、「正確な発音」についてあまり(というかほとんど)触れられていないんです。なにせ国研は「正確な発音」は「表現の能力」ではなく「知識・理解」に位置づけてるくらいですから。(参照 「評価規準の作成のための参考資料」考

 何はともあれ「解説」に従うと、この「正確な発音」という土台の上に、以下の(イ)〜 (オ)の評価項目を考えていくわけですが、ぼくが前回の記事で「最低限の適切さ」と勝手に位置づけていた「意味伝達」については(イ)で「正しく伝える」という表現を使って説明しています。それって「正確さ」なの? ますます「適切さ」ってなんなんだぁ?と頭が混乱してきます。

 (ウ)と(オ)は観点というより指導内容なので置いておいて、(エ)は「工夫」という言葉があるので分かる通り、いわゆる「プラスアルファな適切さ」ですよね。これはまぁわかる。

 ここまで見ていて気づいたのは、学習指導要領においては、「話すこと」を評価する際に「文法的な正確さ」を評価する観点は特に設定されていない、ということ。「正確さ」と聞いて教員はまっさきにそれを考えてしまうけど、ここでの「正確さ」は「意見や事実」が正確に伝わったかどうか、ということ。もちろん文法が乱れれば意味がちゃんと伝わらないかもしれないから、「文法の正確さ」だって大切だけど、それはあくまで2次的なもの、と考えているようです。

 それじゃあともう一度国研の評価資料を見てみます。何度もご紹介している「評価規準の作成のための参考資料」(←「の」多すぎ)です。「外国語表現の能力」の評価規準に盛り込むべき事項としては

・自分の考えや気持ち,事実などを英語で正しく話すことができる。
・場面や状況に応じて英語で適切に話すことができる

という2点を提示。その中で具体的な「話すこと」の評価規準の設定例としては、以下の項目を挙げています。

(正確な発話)
・ 正しい強勢,イントネーション,区切りなどを用いて話すことができる。
・語句や表現,文法事項などの知識を活用して正しく話すことができる。
 
(適切な発話)
・場面や状況にふさわしい表現を用いて話すことができる。(A)
・尋ねられたことに対して適切に応答することができる。(B)
・適切な声量や明瞭さで話すことができる。(C)
・聞き手を意識して,強調したり繰り返したりして話すことができる。(D)
・与えられたテーマについて,自分の意見や主張をまとまりよく話すことができる。(E)

 さっきの学習指導要領と違っているのは、国研では「正確な発話」の中に「正しく伝える(意味伝達)」がなくて、反対に「文法的にも正しく」みたいな項目が入ってきていること。ちなみに国研の方は意味伝達に関しては「適切さ」の項にもそれっぽいのが見当たりません。あえて言えば(B)の「適切に応答する」くらいかな。

 一方で「適切な発話」のうち(A)(C)(D)(E)についてはすべて「プラスアルファな適切さ」の部類です。適切な声量はともかく、それ以外はできていなくてもまぁ伝わることは伝わるでしょうから。ということは、やっぱり「適切さ」って全体的にプラスアルファなものを指しているのかなぁ。場合によってはnonverbalなものも含めて。

 ああ、なんだかわからなくなってきたぞ。

 ひとつ言えることは、「適切さ」と「正確さ」の概念について、文部科学省国立教育政策研究所でも、イメージを共有できてないんじゃないか、ということ。そりゃあ作ってる人は違うだろうし、それぞれに思いもあるだろうけど、オフィシャルなものを提示する人たちがそれじゃちょっとまずいんじゃないか、と思います。

 「最低限の意味が誤解なく伝わる」ということが「正確さ」と「適切さ」のどちらで評価されるべきなのか。最低限何と何を満たしていれば意味伝達は成功したといえるのか?

 もちろん場面や状況に影響は受けるでしょうが、「例えばこんな場面であれば」なんて例示をすることは可能でしょう。こういう大きな前提部分を共有できないまま、どうでもいい瑣末な項目で授業の評価規準を(それぞれの教員に独自に)考えさせていても意味がないと思います。まして、それが高校入試などでの選別材料としても使われる可能性があるというのは、ちょっと怖いです。

 先日のJASELE2011山形大会のシンポジウムでの評価の話は、(ライティングという前提を抜きにしても)個人的にはすごく面白かったです。教師が自信を持って評価できること、その評価が生徒にとって意味のあるものになることを願っています。現場の教員もなんとなくやっていないで、「わからないものはわからないよ」と「上」の人たちにも訴えてみて、悩みや不安を広く共有していくことで、ひとつでも新たなスタンダードを生み出していくことが大切だと思います。

 しかし最近こういう記事ばっかりだなぁ。

 現場にいないので具体的な授業アイディアは浮かばないけど、その分こういう俯瞰的な話や抽象的な話をじっくり考える時間がもらえているということでご容赦を。