ライティング指導における「自己表現」を見つめ直す

 ここのところ、いろんなところで語っていることですが、ブログでは書いてなかったので改めて。

 中学生向けのライティング指導を語ろうとすると、先生方から「自己表現」という言葉が出てくることが多いです。この言葉の定義もいろいろあると思いますが、一般的には狭い意味で「自分のこと、考え、リアルな体験などを書くこと」を指しているように思います。

 私自身もこれまでライティング活動を考える際に、いかにオーセンティックなライティングのお題を設定するかに腐心してきました。やっぱり、自分と全然関係ないことを書かせるより、リアルなことを書かせたほうが意欲的に取り組むだろうし、のちのちそれらの表現が実際の使用場面で活用できる生徒もいるかもしれない、と考えたからです。

 学習指導要領でも「話すこと」「書くこと」に関しては「自分の考えや気持ち,事実など」を英語で伝えられることを目標に掲げているので、中学生の英語学習者にとって英語で「自己表現」できることが1つの到達「目標」となっていることには異存はないものの、学習や評価の「手段」としての自己表現に果たしてどれくらい効果があるのだろうか、という疑問を持つようになりました。具体的には、

自分についてばかり書いていたら、いつも同じような語彙・表現ばかり使用してしまうので、限られた範囲での表現しか身につかないのではないか?

そもそも書く内容が個人によって異なってしまったら、書く力を測って比較するのに不適切なのではないか?

「自己表現」を書いていたら、自己表現ではないテーマについて書くよりも「書く力」が伸びるのだろうか?(伸びるとしたらどの観点で効果があるのだろうか?)

といった疑問です。この辺が、私の修士論文に向けての研究の出発点になりました。

 こういったことに疑問を持っている方は他にもたくさんいらっしゃって、昨日も「タカの英語教師日誌」というブログで、まさにこのあたりのことに触れられていました。

…実態を考えると、この手の活動って、どんなことをアウトプットさせるのかという「内容」に重きを置きすぎていて、現実のコミュニケーションのsituationから離れすぎてるのでは?と思うときもあります。確かに、生徒が本当にこれを表現したい!という自己表現できればいいのかもしれませんが、生徒にも聞かず指導者側で勝手にお題を設定して、きっとこれが表現したいことだって決めてやらせているだけではないのかとも思うときがあります。何がいいたいのかというと、自己表現活動に固執する必要性があるのかということです。

 これを読んでうんうんと頷いていたら、そういえば靜先生も関連したことを先日書いていらっしゃったことを思い出しました。(Kyle's Kingdom「自己表現よりタコ表現」

…「自己表現」は、これはこれである程度の手応えはあったのですが、限界というか非効率さも感じました。それは、訂正表現は教えますが、あくまでベースがその学生が手持ちの表現のなかだけでの勝負になるので、ある程度になるとあとは堂々巡りというか、同じレベルで足踏みを続けるようなことになる、という感覚です。

 「なんとなくよさそうだから」というだけで、同じような「自己表現」系のライティングお題ばかり生徒に与えている先生には、ぜひ読んでいただいて改めて考えていただきたい記事ですね。

 ということで、私の修論に関することも今後こちらで少しずつご紹介していく予定です。アカデミックな表現をできるだけ使わずに、多くの人に読んでいただけるように書いてみようと思っています。