「怖くない先生」が「怖い」と感じていること

 このブログではできるだけ政治的な発言は避けてきたんですけど、今回のこのニュースは、自分の教師としてのアイデンティティに関わる問題だと思うので、少しだけコメントを。

 気になったのは一昨日のこのニュース。

「いじめ防止に武道家の先生を」 谷川文科副大臣が持論

 いじめ防止には、怖い武道家の先生が必要――。27日に文部科学副大臣に就いた谷川弥一衆院議員が、最初の記者会見でそんな持論を展開した。

 谷川氏は「いじめたら怒られる。それを理解してもらうには怖い先生が学校にいないとダメ」と述べ、「武道家。一番いいのはボクシングだと思うが、空手、剣道、柔道、プロレスも入るかな」と格闘技を列挙。「いないなら警察OBを雇う」と続けた。
朝日新聞デジタル 2012年12月28日)

 「生徒指導」ということが、単に恐怖によって生徒を押さえつけることと同義であるなら、ぼくは「生徒指導のできない教員」だと思います。ぼくは(アイコンの通り)迫力のない顔ですし、四六時中怒ってるキャラでもないし、武闘派でもない。

 それでも授業はなんとか成立しているし、クラスもとりあえず順調に回っていると思っています。それは、「怖さ」以外の何かで生徒を動かせているから、だと自負しているけど、この副大臣にはそういうものは見えないんだろうなぁと思います。

 もちろん、ぼくがこんなキャラでなんとかやれているのは、同じ学年や学校の中にいる強面な先生の存在があるから、ということもあるでしょう。でも、逆に言うと、そういった先生方ではできない役回りを、自分が担っている意識はあります。学校は組織ですから、いろんな役割があって、(それが明示的に決められたものではないにしても)みんなそれぞれの役割を果たしているから成り立っているはずです。

 「怖い」先生が、ただ自分の怖さだけを武器に生徒をコントロールしていたら、生徒は「怖くない」先生の言うことは聞かなくなるでしょう。そうやって、生徒が相手を選んで対応を変えるようになることを、この副大臣は願っているのでしょうかね。究極的には銃を持った警備員を各学校に配置すればいい、みたいなどっかの国の某団体が言ってるような未来を連想させてしまいます。

 やれやれ、です。

 ただ、保護者も含めて、似たようなことをおっしゃる方も少なからずいます。だから持論は持論で別にいいんですけど、それをその立場の人がさらりと言っちゃう(言えてしまえる)空気が怖いです。

 最近読んだブログ記事でも同じような不安を書いていた方もいますから、そう感じている人は私だけではないのでしょう。(参照→「いじめ防止に「怖い先生」は必要か?」BLOGOS) この発言って、要するに世の中も政治家がそうやって恐怖をちらつかせてコントロールしていけばいい、という意思表示にも取れるわけで、そういう意味でも怖いわけです。

 いじめの問題は対応が本当に難しいです。そして、いじめに限らず教師と生徒の関係は、以前より難しい時代になってきているかも知れません。そんな中で、これまで様々な教師が蓄積してきた「知恵」や、自分自身が苦労して築きあげてきた「教師としての在り方」をすべて否定してしまうような今回の発言は看過できないんです。

 公立校に関していえば、正直いろんな学校があります。「現状をなんとかする」ためだけでいえば、相当な「厳しさ」や「怖さ」が必要な場面はあるでしょう。荒れていなくても、教師が「まぁいいか」と簡単に妥協したり、そのラインを適当に変えたりしていると、生徒は離れていってしまうでしょうし、それが「荒れ」を生み出してしまうこともあります。だから、我々が心しなければならないことは当然あります。それでも生徒がちゃんと人間らしく成長していくためには、「その先」に必要なことがあるわけで、教師の資質として必要なのはまさに「その先」なのだと思います。

 個人的には、今回の「怖い武道家」問題に限らず、「教師がスーパーな人間でないと成立しない学校」というのは、どうかと思っています。それの方が難しいのは承知のうえで言えば「どんな人が教師でも成立する学校」をこそ目指すべきだと思っています。