研究と実践のあいだ

 土日と、札幌で開催されたJASELE(全国英語教育学会)に参加して来ました。

 夏休みに入ってからずっと怒涛の日々が続いてましたので、本当に行けるか不安でしたが、なんとか行ってくることができました。年に一度の「お祭り」ですから、全国にいる多くの先生方や研究者の方々と交流ができて、とても楽しかったです。

 いつもならオンラインでお世話になっている方々を中心に発表を拝見するのですが、今回は完全に自分の興味・関心の赴くまま、概ねライティング関係の部屋を巡回して、発表を拝聴して来ました。そのへんで感じたこともたくさんあるんですが、今日はシンポジウム中に考えたことを備忘のために書き出しておきます。

 今回のテーマは「英語教育実践と研究の接点」でした。

 私が学会に足を運ぶのは、第二言語習得や外国語教育の「科学的」な知見に触れてみたいからです。この「科学的」という言葉はシンポジウムや基調講演でお話いただいた白井恭弘先生が繰り返していましたね。(ご本人の感想記事はこちら) 学習者の学びにはある程度の法則性や傾向があって、それに合わせて指導法を工夫することで効果もいろいろ変わってくるはずです。そういった「理論」を知りたい、という思いです。

 一方で、教室で中学生と日々格闘している中で、中学生が理論通りに本当に学んでいるだろうか、という疑問も感じています。それは、物理の時間にお勉強したように、重力に従って物体が坂道を滑り落ちていく時に、何かしらの「摩擦」がそこには本来あって、必ずしも理論値通りの動きをするとは限らない、というのと同じです。

 この場合の「摩擦係数」は「L1とL2の距離」や「EFLかESLか」みたいな言語的な特徴によるものもあるでしょうけど、「生徒のやる気」、「生徒の体調や気分」、「教師と生徒の人間関係」のように、教室を取り巻く様々な環境要因であることも多く、その数値も(仮に同じ生徒であっても)日々様々に変化します。

 10年以上教師をしてきて日々実感しているのは、「理論」で語られるべき「指導法を変えたことによる学習効果の差異」よりも、「摩擦」と呼んでいる「教師と生徒/教材と生徒etc.のあいだにある抵抗値」の方が、変化量が大きいというか、生徒の学びに大きな影響を与えているように思える、ということです。

 つまり、一般的に残念といわれる指導法であっても力のある教師が実践すれば、優れた指導法を実践している教師よりも成果を上げてしまうこともありえるのではないか、と思います。それは反対にいえば、摩擦のうち「教室を取り巻く環境」の部分については、授業をする教師が「どうにかできるもの」だということです。

 「カリスマ」と呼ばれるような熟達した教師には、もちろん「理論」に沿った指導方法を考えだし成果を上げている先生もいるでしょうが、少なくともどのカリスマも「摩擦」をできるだけ取り除いて、指導法が機能するような環境を(自覚的か無自覚的にかは別にして)作り上げているのは確かです。

 そっちの方が効果量が大きいのですから、「現場」の教員が「摩擦取り除き」に関心を寄せがちなのは当然と言えます。ですから、巷のワークショップ等にて英語教師間で共有されているのは、そういった「知恵」であることが多いように思います。

 ただそういった作業が「理論」とは別世界なわけではありません。理論を「現場」に当てはめる際には摩擦の計算が絶対に必要なわけで、こういった摩擦を取り除く知恵を「質的」に研究する試みも、十分に「科学的」でありえるはずです。ここで何度も宣伝させてもらっている拙著にて「教師の語り」を集めて共有しようとしているのも、そういう試みのひとつだと思っています。

成長する英語教師をめざして―新人教師・学生時代に読んでおきたい教師の語り

成長する英語教師をめざして―新人教師・学生時代に読んでおきたい教師の語り

 私は自分なりに目の前の摩擦をなんとかなくす工夫をしてきたつもりです。でも、生徒が変わればその度に新しい摩擦に出会うし、そこでまた奮闘します。その上で、アスリートが0.1秒でもタイムを縮めようとするように、少しでも高い数値を弾き出せるように、理論を学んでいるつもりです。

 ただSLA的な最新の知見を学会等で聴いたり読んだりするときには、この摩擦係数が、あまり語られていないのが気になります。個人的にはL1とL2の距離やEFL/ESLみたいなことよりも、日本の中高のクラスサイズの問題の方が、無視できないことのように感じています。

 特にrecastのような暗示的なフィードバックや、メッセージのやりとりとしてのインタラクションのような手法は、教師と一対一の関係で学べれば量的にも質的にも効果を生み出しそうですけど、果たして生徒が40人いる教室でどのくらい意味を持つのかは疑問です。

 白井先生が例として挙げていた太田先生のように、それを40人いる教室でも実現する達人もいるでしょうけど、全国に数多ある教室でそれを実現するために必要なことこそ、もっと語られていくべきだと思います。

 生徒の英語力を上げろ、という社会からの要請もあり、これまで以上に成果が求められる世の中になりつつありますが、教師の指導技術としての「理論」を批判されることはあっても、こういった「摩擦」が話題になることはありません。それどころか、時に社会が新たな摩擦を増やしてしまったりするから残念です。「英語は英語で」や「入試はTOEFLで」みたいな話だけでなく、例えば「クラスサイズを小さくするための予算措置」みたいなことが、社会でも語られていくことが必要だと思います。

 個人が(こういう風に)訴えることが継続するとして、学会として世の中に発信していくことも、何かできるのではないでしょうか。教育政策こそ「科学的」にしていきましょうよ。

 ふう。

 最近はTwitterばかり使っているせいか、まとまった文章を書くのが苦手になってしまいました。今回も考えながら綴っていますので、論理的でない部分も多々あるかと思いますが、ご容赦ください。いつも通り、考えながら書き、書きながら考えていますので。

 明日は、たぶん7月・8月通して初めて家でゆっくりできる日になりそうです。たまには、じっくり何かの本と向き合ってみようかな。

 長文失礼しました。