Twitterで何かを語るのが、なんか気分が乗らないので原点回帰。あちらではお知らせせず、更新に気づいた奇特な人だけにお届けします。
最近は、雑誌連載の原稿を書いたりする際に、Workflowyというアウトライナーを使って、キーワードを書き出し、主な主張やエピソードのメモを並べ替え、それに肉付けして文章として整えています。字数制限もあるからこのプロセスが必要なんだけど、このブログで綴ってたころは違ったなぁ。Hatena Blogのエディタを開いて、ここでああでもないこうでもない言いながら、時間をかけて書いてた。考えながら書いてた感じ。だから、今読み返すと自分の思考(嗜好)の変化の途中にあるような文章も結構残ってて、個人的には面白かったりもします。
最近は、そういう思考の断片を、Cosenseとかにも記録してたんだけど、あそこはやはり自分のための場所という感じ。半分世界に開いている場所に、考えていることを書くというスリリングさが足りません。ということで、今日はブログに書いてみてるわけです。
で、今日ですけど、ゼミがありました。
今年のゼミでは「ゲーミフィケーション」をテーマにしてて、後期の授業ではミゲル・シカールの『プレイ・マターズ 遊び心の哲学』読んでます。英語の授業や、言語活動(やもっと地味な学習活動)を、楽しく、深くする「仕掛け」を探し求める旅です。
今季は、細かく確認していくというより、担当のゼミ生が気になった部分を問いとして立ててもらって、そこをみんなでじっくりディスカッションする形なんですけど、細かく確認していくタイプで進めてた前期や昨年度より、なんか議論に広がりと深まりがある感じ。これこそ「余白」の効能かな。参加者の裁量権が、主体性を引き出している実例とも言えそう。
今日の議論で面白かったのは、授業に(学校に)「遊び」を持ち込んだ場合に、授業が遊びに乗っ取られないか、という懸念について、様々意見が出ました。「ただの遊び」ではなく「学び」につなげたい。「遊び」は本来自己目的的でいいんだけど、「ゲーミフィケーション」(この本では「遊び心」)として考えると、やっぱり別の目的を達成するための手段であってほしいから。
で、学生の議論では、遊び心が機能するためにはそういう集団・環境になっていることが前提だからやっぱり授業の「マネジメント」が大事だよね、という話になり、さらにその大前提は「教師の人間性」だよね、という話になった。その指摘には誤りはないんだけど、なんか引っかかる。というか、面白くない。それじゃ、「遊び心」さえも自己目的に縛られちゃってる、というか。
もちろん前提を整えた上ではあるんだけど、なんならその前提のところで多少の差があったとしても、それを逆転できるくらいの「効果」を、個人的には「ゲーミフィケーション」や「遊び心」といった「仕掛け」には期待したいわけだし。
「活動中日本語を使っちゃう生徒に、どうやって英語で話させるか」みたいなアイデア出しで、みんな真っ正面からその課題に取り組んでるんだけど、どこか(たぶん正しいんだけど)きれいな言葉で終わっちゃう。
ぼくがふと思い出したのは、初任校でお世話になった先生がやっていた「ジャパニー樹(じゅ)」という実践。教室の後方に、模造紙で作った「樹」の掲示物があって、授業中にどうしても日本語を使いたくなった生徒は後ろに行って「ジャパニー樹」に触っているあいだだけ、日本語を使ってもいいというチートなんです。
なんて、くだらない。
なんて、面白い。
「日本語を使っちゃう」生徒には、別のところで日本語使わせちゃえばいい、という逆転の発想。ああ、こういうのはまさに「遊び心」だよなぁ。こういうアイデアって、教育的な真摯な思考の先にあるとは限らなくて、飲み屋で思いついちゃった(あるいは偶然口から出た)ダジャレとかを、無理矢理形にしようとしたおふざけから始まってたりすることだってあると思う。(先輩にもう確認できないのが本当に残念です)
だから、(真面目であることは否定しないけど)もっと自由でいいんだよ、という話をしました。自分の小さなこだわりや、ひらめきが、いつか何かの形になったら、うれしいよね。
いや、でも今日の授業は楽しかった。
そして、こうやって自由に書くの、久しぶりだけど楽しかった。
