学会の方が教員向け研究会よりエキサイティングだと思う理由

 大学院生の身分になって、初めて「学会」というところに顔を出すようになりました。これまではずいぶん敷居の高いイメージがあり、関東ではいろいろな学会が催されてはいましたが、参加したことがありませんでした。

 一方で、現職教員向けの「研究会」には、何度も足を運んできました。授業をライブやビデオで見たり、参加者同士で意見を交換したり、一緒に教材を作ったり、著名な方のお話を聞いたり、スタイルはいろいろです。

 ただ、今回JASELE2011山形に参加していて、「学会の方がエキサイティングだな」と感じていました。なんでだろうと帰りの新幹線の中で考えていたら、そういった「研究会」に参加していたときに漠然と感じていた微妙な違和感みたいなものの理由がちょっと見えてきました。

 それは、学会では発表者と聴衆が対等である、ということです。

 学会での発表を聞いていると、「真実」は誰にもわかっていなくて、でもその「真実」に近づくために発表者は何かアプローチを企てているんだ(足掻いているんだ)、ということが伝わってきます。どんなに持論を自信満々に発表する人でも、「研究」という枠組みの性質上、(少なくとも建前だけでも)「リミテーション」を自覚し、それを聴衆に提示するのがマナーです。でもこのステップがあるだけで、発表者が聴衆と同じラインまで降りてくる感覚があります。

 だから、聴衆からも容赦なく質問や意見が飛んできます。ベテランの研究者の発表に対して、若手がズバリと質問するような場面もよく見かけます。これがいいなぁと思うんです。聴衆も一緒になって「真実」に迫ろうとしている、という空気があります。質問コーナーで持論を熱く展開しちゃうような人もまぁたまにはいるでしょうけど、それはどの世界でも一定数存在するから仕方ないですね(笑)

 一方で、現職教員向けの「研究会」では、講師や発表者の側が「答え」を握っているような雰囲気があります。参加者はそんな「答え」の一部を分け与えてもらうために、集まっているように感じてしまうこともあります。時が経てば、そんな参加者の中からやがて講師の側に立場を変える人が生まれて、その教えをまた後輩に伝授していくのでしょう。「後輩を育てる」という目的からすればある意味理想的なサイクルですが、果たして(講師も含めた)全体が一歩でも前に進むための研究がなされている場所なのか、というと疑問です。「研究会」と名乗らず、「先生の学校」ならそれでいいんですけど。

 前にも書きましたけど、官製の研修会では最後に指導者が「ご指導」をしておしまい、ということがほとんどです。その「ご指導」に対して疑問があっても、再度質問する場がない。これがいつも残念に思います。そこでフロアと指導者が一緒になって、さらなる「真実」に近づこうと努力することが大切だと思うんです。

 とはいえ、別にすべての現職教員向け研究会が学会のようであれというつもりはありません。役割は違っていいとも思います。でも、現状を少しでも前向きに変えていくためには、参加している(特に)若手教員にもっとチャレンジして欲しいです。

 どんなに著名な講師が発表してたとしても、疑問に思うことがあれば率直にぶつけてみて欲しいです。生意気に思われても、「ぼくは違うと思うんですけど」って主張して欲しいです。きっと、前に立っているカリスマ講師の方々は、若い頃そうやって自分の考えを表現してきた人たちなんだと思います。だから、ただ聞いているだけでは、そういう人に近づくことはできないんだと思います。

 私も人前で話をさせてもらうことがたまにありますし、サークルを運営する側でもありますから、そういう若手の「生意気な声」を引き出せるような場を作っていきたいなぁと考えています。そして自らの実践のリミテーションを自覚した上で、少しでも汎用性のあるアイディアをみなさんとシェアしていけたらなぁと思っています。

 きっと学会は学会で課題があるんでしょうけど、私は学会で学べることを現職教員の集いに1つでも持ち帰りたいと思っています。そして、こういった環境で学べる残りの時間を大切にしたいと改めて思いました。