AIさんがやってくれるとしたら、その力はいつ身につければいいの?

 今日も過去の連ツイをベースに、ブログ記事にしてみる。

 電車の中で気になった企業広告があって、その名も「感性AI株式会社」。

  どうやらネーミングやキャッチコピーのブレストとしてAIが大量に候補を書き出してくれたり、試作したネーミングやパッケージデザインなんかをアップロードして、予想される消費者の反応をAIが教えてくれるっぽい。

 なるほど、そうするとコピーライターがクライアントのために何百もコピーを考えたり、デザイン案をたくさんの人にモニターしてもらって意見を募る、みたいなプロセスが要らなくなるってことで、それはそれこそ業界の「働き方」を考えたら望ましいことなんだけど、何百もコピーを書いたり、たくさんに人の話を聞いたりする中で育つ専門性や職人技は、(そういう形では)もう育たない時代なんだなぁ、としみじみ。

 だって、こういうのって例えば翻訳のお仕事における「下訳」みたいな作業も同じで、AIがやってくれるなら、誰かがもっと別の仕事にリソースを割けるという意味ではいいんだけど、そういう下請け的な仕事を通して、例えば若手の人なんかが技術を磨いてきた背景もあると思うんだよね。

 

 教師のお仕事で言えば、なんだろう。「テスト問題を作成する」はすでにAIが効率的にやってくれてて、「個別最適化」も可能な彼らの得意分野かも知れない。でも、それじゃテスト問題を作る専門家としての「眼」を鍛える場もAIに「奪われてしまう」んじゃないか、と心配になる。

 いや、テスト問題はAIが作ってくれて構わないけど、「テスト問題を作れる眼」は教師に必要な資質・能力だと思うんだよね。英語(文法)や学習者の特性を理解していないと、残念なテスト問題になっちゃうわけで、そこで鍛えられた「眼」は授業をデザインする上でも大切になるはず。

 ん、待てよ?でも「授業をデザインする」ことさえも、教師は奪われつつあるんだった。教材研究する時間もなく、とりあえずその通りやっていけば「それなり」の活動も保障される教科書。でも、指導するためにはやっぱり「英語と学習者」をよく理解していなきゃダメなわけで、そういう経験なしに指導できるようになるもんかなぁ、とこちらも心配になる。

 「教えない授業」も同じ。これまできちんと「教え込む授業」をしてきた教師なら、ある程度経験を積むことで、生徒主体に活動させつつ要所できちんと指導するってこともできるかも知れないけど、そもそも「教え込む授業」をしたことがなく「教え込む技術」がない教師に、本当に(意味のある)「教えない授業」ができるものなのだろうか。若くして「教えない授業」に取り組む先生がいらっしゃったら、いつかお話を聞いてみたい。

 

 あれ、結局結構加筆しちゃった。