『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』(新井紀子)読了。面白かったです。
- 作者: 新井紀子
- 出版社/メーカー: 東洋経済新報社
- 発売日: 2018/02/02
- メディア: 単行本
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同じ統計とか経済とか教育を扱っていた『「学力」の経済学』(中室牧子)は正直最後まで読むのが辛かったのとは対照的。あの本では、どの話題も結局「損得」の話に収斂してしまうからでしょうか。AI本は、より教員の問題意識に近い感じがしました。
生徒たちがちゃんと「読めていない」のは確かで、実感としてもあるのですが、「読めていない」ことに対応する時間的・物理的な余裕がないのが実態です。「違うよね、どういう意味だろうね?」と問い返す時間・人が公教育の教室に足りない。だから、そのまま流れていってしまう(見過ごされてしまう)のだと思います。
同じようなことは「書くこと」についても言えて、生徒にいろんな感想などを書かせる機会は多いけど、それをじっくり読んであげてフィードバックして(必要があればちゃんとした文に直させる)余裕がない。講演を聞いたら感想。行事が終わったら感想。誰かが来たらお礼の手紙。書く機会は多いけど指導はしきれないから、意味のよくわからないままの文 or 当たり障りのないテンプレっぽい感想文が溢れます。うーん。
難解な小説とかじゃなくて、短めの文章(というか2〜3文のまとまり)をしっかり読めるか、というのは英語の読解問題としても定期テストで出題するけど、国語でも英語でも「何が読めたからできたのか」がわかりやすいテスト問題がもっと増えたほうがいいと思います。国語の教科書や授業やテストについて、もう少し知っておきたいところです。
いずれにしても、生徒たちにRSTをやらせてみたい(自分もやってみたい)と思いました。戸田市の事例も興味深いので、教師向けにじっくり紹介してくれるような本が出たら面白いですね。
昔、学校あげて漢字テストに取り組んでいたときに、普通の国語の漢字テストじゃなくて、「各教科の学習に必要な漢字テスト」やろうって提案して、「いいね」はたくさん集まったものの、実現まで辿りつけなかったのを思い出しました。「不平等条約」「同化」「四分休符」「現在進行形」みたいな漢字テスト。
あれ、やっていたらどうなっていたのか、興味深いです。「板書が書けない」「先生の言ったことがメモできない」ために、学習が遅れがちになってしまう生徒もかなりいるだろうな、と感じていたので。今回の読解力のお話は、そういう意味で重なるところが大きいです。
AI本では公教育の役割みたいな部分も考えさせられます。生徒たちを階層に区切って話すあたりは、現場の教員には抵抗がありますが、マクロに眺めればどこにどのような教育を提供するかは大切な部分でしょう。
そういう意味では、グローバルでもサイエンスでもいいんだけど、「スーパー」じゃない「ハイスクール」にこそ、予算とか人員とか回せばいいのになぁ、と切実に思います。予算や人員を確保するには「教科書が読めるようになること」が行政にとってどれだけ売りになるか次第です。首長が「うちの町の子どもたちは教科書がちゃんと読めます」って威張れるならいいんですけどね。(いや、本来誇っていいと思うんだけど、残念ながら教育を政治利用したいと思う人は違うことを自慢するものです)
言語教育の中に多読的なものはあっていいと思う(量は絶対必要だと思う)のだけど、精読が軽んじられてしまうと、「できる人はできる」っていう当たり前の状況になるだろうし、それって教育の成果なのかといつも思います。
例えば面接練習をしていても、短い文章の中で「係り受け」ができない生徒は多いです。浮かんでは消えていく音声で、しかもプロダクティブなものはより難しいのだろうけど、そもそも文字で、しかもレセプティブなものでもできていないわけです。だから、テンプレに頼ってしまう。意味を考えずに、決まった文を並べる生徒が多くなります。
「言語活動」という言葉が学習指導要領に踊るようになってなおさら、生徒の言葉がテンプレっぽくなってきた実感があります。英検にライティングが入って、生徒の書く英文がつまらなくなったのと似ています。みんな同じでみんな残念、みたいな。だから、大学入試と4技能外部試験の話なんかとも重なってくるけど、政策によってトップダウンで言語教育を変えていこうという流れには、いつも不安を感じてしまうのです。
この本はずいぶん売れているみたいで、学校教育に直接かかわらない人たちにもこういう話題が共有されていくのはとてもいいなと思いました。ここからが議論のスタートで、いろんな考え方が共有できたらいいですね。