3・4年生のゼミでは、TBLTに関する文献をテキストにして、TBLTを理論面から理解すると同時に、実際に模擬授業的に実演することで教師の視点と生徒の視点を体験しながら考えることに取り組んでいます。中高の英語教師を目指す学生が多いので、新しい学習指導要領の掲げる「思考・判断・表現」という評価の観点との兼ね合いも考えながら、理論と実践の両面からタスクを捉える時間になっています。
TBLTの基本的な考え方としては(「思考・判断・表現」のコンセプトとしても)、学習者がタスクに取り組む際に特定の文法事項や表現を使うことを強制しません。これまでのPPP的な教室での指導を考えるとどうしても特定の表現のほうへ導きたくなるところですが、それをなんとか飲み込んで、タスクそのものの持つ意味にフォーカスするようなプレタスクを設定することに、みんな苦労しています。
PPPの最後とプロダクションとしてもタスクっぽい活動に取り組むことがありますが、やっぱりPPPでやってきたなら、それまでのプレゼンテーションやプラクティスで散々示してきた文法事項を使って欲しいと願うことは自然なことです。でもタスクっぽい衣を纏っているために教師は「この表現を使って」とは言わないようにしてたりします。
先日のゼミのディスカッションで、この「特定の文法・表現を使いなさいとはっきり言われないのに生徒は空気読んで使うことが求められる」タイプの授業について、「そういうのが苦手だった、使って欲しいならそう言ってくれればいいのに」というゼミ生の声を聞き、いろいろ考えさせられました。みんな、そんな忖度しながら必死に英語の授業を受けてきたんだね。
誘導的なタスクもどきが多いってことなんだろうな、とも思いますが、教師が良かれと思って暗示的にやろうとしていることで苦労している学習者がいるということですね。
教師としてはコレ使って欲しいという期待は当然あるから、使ってくれてたら「イイね!」すればいいんだけど、使わないでタスクをクリアした生徒がいたらそれはそれで(場合によってはあえてより大袈裟に)褒めてあげればいいのにな、と私は思います。だって、「ダメダメ不定詞をちゃんと使って!」とか後出して言われても困るし、クリアしたのにスルーされても悲しくなります。まるで自分の考えを答えたのに「他にありますか?」と言われてハズレ感を味わう残念な道徳の授業みたい。
その昔、道案内表現を授業で散々やったあとの定期テストで、「駅前で学校までの道順を聞かれた」という設定の作文問題を”Follow me.”の2語で軽やかにクリアした生徒がいました。私はめっちゃ嬉しそうに悔しがったものです。「すげーなぁ、参ったなぁ」って。
というか、学校というのは授業やテストの中でさえも「空気を読む」ことを求められるんだとすると、こういうの苦手な子は本当につらいですよね。日頃からいろんなことに気がついて自分で動ける子は素敵だとは思うけど、それを全員に求めたり、気づけない子を貶める指導はして欲しくない。でも教師の言葉や目線ひとつで、そんな空気を使ってしまってる可能性があると思うんです。
今思うと、ベテランの先生の、私も素晴らしいな真似したいなと思ってきたような指導実践の中には、結果としてそういう「空気を読む」ことを強化しているものがあることに気づいて、ふと考えます。怒鳴ったり成績を盾にして生徒を動かす教師は論外として、そういった素晴らしい先生方は生徒への言葉かけを通して自分の期待を上手に伝え、生徒を導いていきます。私も怒鳴らずに生徒を動かすことは好きだし自分の大切にしてきたところだけど、誘導が恣意的に過ぎないか、と自分のやっていることを見つめ直しました。
それは大学教員になった今も同じで、例えばゼミ生は日に日にすごく深く考えるようになってるし、自分たちでどんどん動いてくれるようになったと感じてるけど、そこには私の期待も感じ取っているんだろうし(もちろん私も意図的に仕掛けてるけど)、その背景に単位を出す人という私の「立場」が人を動かしてないかと不安にもなります。
「主体的に学習に取り組む態度」なんて言葉が評価規準として掲げられてしまうこの時代だからこそ、考え過ぎかもしれないけど、ちゃんと考えておきたいな、自覚的でありたいなと思うのです。