大阪冬の陣で感じたモヤモヤをちょっと整理してみた

Harvest Winter Session 2024というイベントにお呼ばれして、大阪でお話をしてきたのが今年最後のお座敷。多くの方に、連載読んでるよ、ポッドキャスト聞いてます、ブログ読んでました、とお声かけいただき恐縮。『意味順ドリル』まで持ってきてくださった方までいて感激。

で、みなさん私の発信を受け取るのに、ポッドキャストとブログ、どっちがいいですか?と尋ねて回ってたんですけど、これはもうホントに人による。聞いてるだけだと流れていっちゃうから文字で読みたいという人もいれば、移動中に聞き流せるので音声がいいという人もいる。

そうかぁ、じゃあたまにはこっちにも綴ってみるか、と久しぶりのブログのエントリになります。大阪の振り返り。

今回のセッションは、登壇者が特にスライドとかを用意せずに、その場で司会者さんの投げかけに反応しながらそこで生まれる議論を楽しむジャズ的なセッションだったんですけど、登壇者・フロアとのやり取りの中で、気になったというか、「話が噛み合ってないな」と感じた場面が2回ほどありました。そこで何が起きていたのか、私なりに考えてみたいと思います。

 

1つめは、現職教員の研修についての話題の中で、登壇者が「日々の自分が担当している授業が自己研鑽の場になっている」という発言に対し、フロアから「本来業務である授業を『自己研鑽』の場とするために必要な、自分の実践を捉える省察のスキルはどう身につければいいのか?」という問いがありました。

この質問が、登壇者には伝わってなかった。これは、たぶん「省察にはスキルが必要」という前提が、共有されてなかったんだろうな、と思います。授業の振り返りなんて、教師なら誰でもできる、と思っている人もいる。

でも、学生や教育実習生、若手の先生と接したことがあれば、「今日の授業どうだった?」と聞いても、漠然とした答えや細かすぎる反省しか返ってこないなんて経験がある方も多いと思います。でも、自分ができることは人にもできると思っちゃう人も一定数いるんだよなぁ、と改めて感じました。

 

もう1つは、別の登壇者が「少人数授業」のメリットを熱く語った際、私があえて「噛ませ犬」の役回りとして、「でも、少人数制にもデメリットありますよね?」と議論をふっかけました。少人数制にすると、例えば添削する英作文の数が減るので業務削減になる一方で、担当する教員数も増えることになるので、教員同士の「調整」という新たな業務(同僚問題)が生まれるリスクもある、極論だけど1人のスーパーな先生が指導しちゃうほうが質が高くなることだってあるんじゃないですか、という話です。

私としてはこれはガチで反論しているというよりフリというか、相手への「スルーパス」くらいの気持ちで発言してて、「メリット・デメリットあるけど、それでも少人数にする価値がある」みたいな言葉を相手の方に期待しての「反論」だったんです。

でも、これが伝わらなかった。ガチギレされちゃいました。

まぁ、これは事前にプロレスをすることを先方に伝えてもいなかったので、コミュニケーション不足だったな、と私も反省しています。そのへんを汲み取ってくださる「いつもの仲間」とやるべきだったな、と思いました。

 

でも、ここが伝わらないのは、やっぱりちょっと悲しいな、とも思うんです。

実は以前にも、この先生とディスカッションをしてて、話が拗れてしまったことがあっって、真意を伝えるって難しいなと感じていました。その先生とは、目指す授業像や教育の在り方は結構似ているなと思うのに、その実現のための手段を話し合うと、いつも話が拗れちゃう。

ぼくは、目的が異なる人と話し合うのは難しいことだと考えていました。でも実は目的よりも、どんな手段を選ぶかというところに、その人の人間性というか全人格みたいなものを見出しちゃうのかな、なんて思いました。だから自分が選択した手段が否定されると、人は怒っちゃう(悲しくなっちゃう)。野党の内ゲバのほうが、亀裂が入ると激しくなっちゃいますもんね。

今回、この2つの事例を通して感じたのは、月並みですが「想像力」の重要性。こう言ったら相手はこう受け取るだろうなぁ、とか、相手はこういう気持ちでこんなこと言ってるんだろうなぁ、とか。いや、それ自分が一番苦手なことなんですけど…。少なくとも、フラットな場で科学的な議論をする研究者や、多様な生徒を相手にする教師には、本当に求められる力だなぁと改めて感じた次第。

ほら、だからやっぱり「隣の人の頭の中は異文化」じゃん!