となりの人の頭の中は「異文化」

 「内田樹の研究室」の「論争について」を読んで、いつもながらすっきりとした気分になる。いわゆる「言論人」でありながら「論争はしない」という氏のスタンスが、矛盾しているように思えていたのだけど、今回の記事を読んでやっと納得。

論争というのはそこに加わる人に論敵を「最低の鞍部」で超えることを戦術上要求する。
それは「脊髄反射的」な攻撃性を備えた人間にとってはそれほどむずかしいことではない。
あらゆる論件についてほれぼれするほどスマートに論敵を「超えて」しまう種類の知的能力というものを備えている人は現にいる
(中略)
そのような能力はその素質に恵まれた人自身も、周囲の人もそれほど幸福にしないことがわかったからである。
それだけの資質があれば、それをもっと違うことに使う方が「世の中のため」だろうと思う。

 「正しいこと」はひとつではない。

 うっかり学校ではたったひとつの「正しいこと」ばかり教えてしまう。いや、小学生くらいならそれでいいんだろうけど、中学生くらいになったらやっぱり「いろいろある」ことも教えたい。

 大人でさえ(大人だから)、そういうことはみんな苦手です。

 いろんな考え方や理想を持った先生方と働く学校現場では、「もう少しみんなで同じ方向向いてがんばろうよ」と思うこともよくあります。でも、そんな中でお互いにどこまで譲り合って、どこまで自分を主張し合って、「最大公約数」を高めていくかが、組織としての「学校」の到達レベルなんだと思います。

 例えば、授業のやり方は先生によって大きく違うことがよくあります。

 特に同じ学年を複数教員で担当していると、難しい問題を抱えることもありますが、そういう意味では、私の場合は本当に同僚(というか先輩)に恵まれ、若輩者の私の意見に耳を傾けてくれる先輩方のおかげで、お互いを尊重しながらいいバランスでやってくることができました。

 進みの遅い私の授業を受けている生徒から不安げに、

 先生あっちのクラスはこんなことやってますよ

なんて言われる度に、「山の登り方はいろいろ。最終的にたどり着く到着点は同じだから安心してね」と言い聞かせてきました。もう一方の先生も、同じように言ってくださります。それが、なによりありがたいことでした。もし万が一同僚で批判し合っていたら、すぐに教師集団そのものが信頼されなくなってしまったことでしょう。

 外国語を学ぶということは、自分たちとは異なる考え方を学ぶこと。

 同じ日本人であっても、となりの人の頭の中は時に「異文化」です。だからこそ、英語ということばを通して、お互いの価値観を知ることができるような活動が、私は好きなんです。近年私がライティング活動に凝っているのも、そういう機会を生徒たちに提供できるからなのかもしれません。英語の授業の中で、そんないろいろな「異文化」とのつきあい方を、(それが主目的ではないにしても)間接的に学ばせているんだろうなぁと思います。

 Twitterやブログなどの「ミドルメディア」が普及して、いろいろな人の「生な」考えに触れることが以前より増えました。政治的な主義主張からもっと身近な個人的嗜好まで、いろいろです。時に自分の主張を誇示するために相手を攻撃する書き込みも見られますが、私は違う使い方をしていきたいなぁと思うのです。内田氏も言います。

私は「自分の旗」を掲げて、「私の考えに同意してくださる方」へ連帯の挨拶を送るだけである。
そのために毎日大量の文章を書いている。
こういう進め方しか私には思いつかない。

 私も、同じです。