ALTはもう要らない?

 昨日は久しぶりに授業のアイディアを書いてみたけど、おかげさまでコメントもたくさんいただきました。貴重な情報やご意見にあふれていますので、どうぞコメント欄もチェックしてみてください。

 さて、そこでも指摘されましたが、受動態とか関係代名詞とかって、文としての適切さというか、その文法を使う必然性の理解が、生徒だけでなく教師の側もあいまいなまま表現活動させてしまうので、トンデモ英文を量産してしまってきたような気がします。冠詞の扱いにしても同じ。昨日提案した活動についても、「英英辞書」の中と、「例文」の中では、冠詞の扱いも変化していく可能性があります。そういうのまで、ちゃんと吟味して出した教材ではありませんでした。

 今日、実習生の授業を参観してきましたが、そこでも先生から同様の指導を受けました。

コンテキストのない中で例文を提示する場合には特によく例文を吟味すること

 改めて生徒に表現させる上での教師側の覚悟というか、教師の力量を高めておかなくてはいけないな、と実感。

 これまでを考えてみると、冠詞の扱い、発音、ライティングの添削みたいな「微妙な問題」は、ALTに頼ってしまってきたように思います。悪いときには丸投げ。これじゃ確かに日本人英語教師の感覚は育っていかない。少なくとも、自分はそうやって甘えてきたように思います。

 とはいえ、それじゃあ日本の教室からALTがいなくなったら、日本人英語教師は、それらの「微妙な問題」に対応できるようにスキルアップを目指すのかな?

 ALTが日本の中学校に配置されるようになってすいぶん経ちますが、残念ながらALTを効果的に活用している授業をあまり拝見したことがありません。まぁ、研究授業などでは日本人英語教師がいつもより張り切ってしまって、余計そうなのかもしれません。自分自身も、継続的にALTの活躍場面を作ってこれた自信はありません。研究授業後にも、「もっとALTの活用を」というご指導を毎回いただいてしまいます。

 そのたびに、「ALTの効果的な活用」ってなんだろう、と考えるのですが、個人的には昨年まで一緒に働いていたALTの活動を見ていて、あれこそが理想的なALTなんじゃないか、と思うようになりました。

 彼は教職員に完全に溶け込んでいて、生徒指導もするし、部活にも一緒に参加しています。だから授業での役割も、まるで日本人教師同士のTTのよう。参観者からは「ALTらしくない」と言われたけど、そういう意味ではうちの学校ではALTがくる授業は「特別」じゃないし、少なくともぼくの授業の中では彼は「アシスタント」ではないのです。

 だから、さっきの問いにも関連するんですけど、思い切ってALTを雇うの止めてしまったらどうでしょうか。で、その代わりに、彼のように生徒指導もできて、日本語での意思疎通も問題なくできるネイティブを、「教諭」として正規雇用する。となると、教員免許を持った人ということにもなるでしょうね。そんなことができるような人は、今ALTをやってる人の中でも何%もいないとは思うんですけど、そういう人材を学校に送っていくのも面白いのではないか、と思ったのです。ただ、もちろんすべての学校にネイティブを、というわけにはいかなくなるでしょうね。予算がありませんから。

 ただこんなことを言い出す背景には、勤務時間が終わっても部活で生徒と活動してくれたり、給料の全然出ない夏休みにもスピーチの指導をしに来てくれたり、本当にがんばってくれていたALTをちゃんとした待遇で迎えてあげたかった、という思いもあります。ALTが派遣会社に委託されるようになって、全国でもいろいろトラブルが起きていますが、彼らの労働環境がどんどん劣悪になってきているのは確かです。

 だから、ALT(アシスタント)としでなく、ちゃんとした「教師」として雇ってあげたい。

 もちろん今のままでは「ちゃんと活用できていないからALT制度をやめるのか」という批判を受けることになるでしょう。「日本人英語教師でもネイティブに近い対応ができるから」と言えるようにならないと、そんな制度を提案はできない。そして、「なんでもできるネイティブ」が学校現場に増えていった場合、我々日本人英語教師が駆逐されていってしまう恐れだってあります。

 少し前に某英語学習本著者が日本人英語教師を批判して、「全部ネイティブに取り替えちゃえ」という持論を展開していました。その言説は極論過ぎるからぼくは反対したんだけど、アシスタントとしてでなく、教諭として学校に来てもらえるならアリかなと最近思ってしまったのです。もちろん校務分掌も、部活指導も、担任業務も、保護者対応もみんな他の教諭と同じようにやってもらうんですよ。

 「そんなのは非現実的だ」というのであれば、きっと「英語授業は全部ネイティブに」という言説も非現実的に過ぎないのだと思います。そういう意味では、昨今の特に学校教育者以外から立ち上っている「英語教育熱」は、「英語教育」を「学校」というコンテキストから切り離して語られがちで、メディアなどもその辺をフォローしないまま話を煽っているところには、すごく不安になります。

 ネイティブでないとできない指導もあります。同時にネイティブじゃないからできる指導もあります。今はそこの部分を大学院でも学んでいます。ぼく自身の考え方も、ずいぶん変わってきたように思いますが、その中でどの辺に「現実的な」落としどころを求めていくかが、これからの自分自身の課題だと思います。

 ずいぶん極端な仮定のもとで書いてきましたけど、ネイティブの在り方、我々の在り方を考えさせられた一日でした。

(追記)

 Twitter上で、今回の記事は「リフレクティブな英語教育をめざして」にある津村正之氏のALTと日本人教師の役割に関する論文と重なる部分がありますね、とご指摘いただきました。ご興味のある方は、こちらの本もご参照ください。

リフレクティブな英語教育をめざして―教師の語りが拓く授業研究

リフレクティブな英語教育をめざして―教師の語りが拓く授業研究