「評価規準の作成のための参考資料」考

 先日、文科省の教科調査官から評価についてのお話を聞く機会がありました。実は昨夏にも同じ方から同じようなお話は伺っているんですが、いろいろ聞きたいこともあったので、そういう会があることを聞きつけて急遽参加して来ました。

 お話は学習指導要領改定の経緯やら趣旨やらで結構時間を使ってしまいました。半ばお約束の「どの教科より多い、週4時間にしてあげたんだから、感謝してしっかりやりたまえ」的なありがたいお言葉もありましたけど、「その昔勝手に週3にしちゃってゴメンね」的なお話は一切無し(←当たり前)

 個人的にはもう待ったなしの時期なんですから、具体的なテスト例なんかを挙げながら現場での評価の仕方についてもっと聞きたかったなぁというのが本音。やっと評価の話に入ったものの、「基本4観点との絡み」みたいな大きめのお話が長かったですから。国立教育制作研究所の出した「評価規準の作成のための参考資料(平成22年11月)」を眺めながらの具体的なお話はほんの少しでした。残念。

 さて、その国研の評価資料を見ていて気になるのは、中学校では音声を中心とした指導をずっと求められてきたにも関わらず、実は「発音」に関する評価項目が一覧にほとんどないということ。なんと「発音」という言葉は、「聞くこと」と「話すこと」の中の「外国語表現の能力」という枠組みには1回も登場せず、「言語・文化に関する知識・理解」というところにしか出てこないんです。つまり国研は日本の中学生に、「発音に関する知識を身につけている」ことは求めていても「正しく発音できるスキルを身につけること」を期待していない、というメッセージを発しているようにも見えるわけです。うーむ。

 昨年、面接テストの評価規準についてじっくり考える機会がありましたが、その際にも「発音の正確さ」をどこに位置付けるべきか、議論になりました。普通に考えれば「読むこと」か「話すこと」という技能について、「外国語表現の能力」の中の「適切さ」を測定していると考えるのが妥当でしょう。でも、この資料をベースに考えると、うまく当てはまる場所がない。

 で、質疑の時間があったので、勇気を出してその辺を教科調査官に質問してみました。ストレートに発音についてだけ聞くのも何故か憚れたので、ダミーな質問もひとつ交えつつ(笑)

 結論はというと、「資料はあくまで参考である。評価に値する指導事項を拾っていって作った表ではあるが、すべての指導事項を網羅できていない。評価に盛り込みたい項目が、どれに対応するかを自分なりに考えて、対応していると言えれば問題ない」というお答え。

 まぁ、つまり「だから発音は評価に値しない」と暗に認めちゃったような気もするんだけど(笑)、それはスルーしつつ、言葉通り取れば「だから発音を評価することはもちろんOKで、どこに対応するかは指導者の考え方次第」とも言えます。だから、「『正しい強勢、イントネーション、区切りなど』の『など』に発音が含まれるんだ」なんて詭弁を使わなくても、「外国語表現の能力」の中の「正確な発話」や「正確な音読」の大切な要素として、発音を評価していってよい、ということになります。

 当たり前といえば当たり前のことしか言ってないんですけど、まぁ教科調査官が言ってくれたセリフなので、個人的にはこれはこれで意味があると思っています。

 こういうやりとりを聞いて、「別に無理にその資料に当てはまんなくてもよくね?」という方もいらっしゃると思いますが、我々「江戸時代の百姓」のような公立学校教員としては、「お上」や「保護者という名の消費者」への説明を万が一求められた場合に、先方の求める価値観の中でも基準をクリアした上で「文句ないでしょ?」って言える拠り所を、一応持っておきたいわけです。

 さて、今回教科調査官がしきりに繰り返していたのは、

「学習指導要領には法的拘束力がありますけど、評価に関してそういう位置づけのものは1つもないんですよ」
「高校の『英語は英語で』ってのは、オールイングリッシュでやれって意味じゃないよ」

ということ。今さら当たり前のことのようのも聞こえるし、いろんな人に対する「逃げ」のエクスキューズようにも聞こえる。

 でも、(特に公立学校の)現場では、こういう「法的拘束力はないけど、これに準ずるよね?」的なものの方が、なんだか「踏み絵」をさせられているような複雑な気分になるのも事実。「それ(国研や文科省の資料)のことはわかってますけど、学校の実情に合わせてうちではこうやってます!」と堂々と言えるようになりたいものです。

 というか、そのためには我々教員だけでなく、広く一般の人々にそういうことを知らしめておく必要があるんじゃないかなぁと強く思いました。メディアに任せてないで、文科省の責任を持って伝えて行くべきだと思います。刺激的な言葉だけ先に舞台に載せておいて、個別に教員に釈明して回ってるんじゃ、フェアじゃない。生徒や保護者が混乱するだけです。

 評価の話は他の指導項目以上に、「アカデミックな世界」「行政」「現場教員」でそれぞれの思惑がかなり乖離していると感じています。なかなか擦り合わせは難しいでしょうけど、そういう三者が一堂に会して、それぞれの理想と現実をぶつけ合いながら話し合うような機会があるべきだと思います。あれ? 中教審でやってるんだっけ? いや、それ以外に場があるべきだと思います。

 まとまりませんが、今評価について思うこと。書き連ねておきました。他にもいっぱい気になることがあるんですけど、それはまたの機会に。