外国語が出来たら日本のテレビでニュースなんて見なくなる?

 2週間ほど前の夜中、Twitterのタイムライン上に"Mubarak resigns"の文字が流れました。

 あわててベッドから飛び出てテレビをつけてみたものの、どこの局も現地からの中継をしていない。通販番組がただ流れているだけ。BSの各民放のニュース用チャンネルも然り。

 でもTwitter上では世界中の人がCNNやBBCやAl Jazeera Englishを見ながら大興奮のつぶやきをしている。完全に取り残された気分でした。あ、そうだ、とケーブルTVを契約していることを思い出しCNNに回してやっと現地映像にたどり着きました。

 CNNでは現地のレポーターと本局のキャスターが、現在の状況についてやりとりをしたり、今後の展望について熱く議論している。とりあえず、そのニュースがわかるくらいの英語力があってよかった、と安心しつつ、自分も「世界の一部」に存在している気分になれました。

 これはすごく考えさせられる出来事でした。

 NHKだって、カイロ支局にたくさんの人がいるわけで、「今こそこれを伝えたい!」って熱意とそれが可能な十分な能力と設備があっただろうに、それが叶わない現状。きっと現地スタッフは歯がゆい思いだったのではないでしょうか。夜中だったから、という理由だけでなく、そもそも日本のメディアは「段取りの決まっていない放送」をすることに極端に嫌う傾向があるように思います。

 何か大きな事件があるとたいてい翌日以降に、同じ録画映像を何度も何度も繰り返し見せて、年配の「解説委員」がそれを説明する、という構造。これしか報道の方法を知らないのか、と思えてしまいます。こっちが聞きたい(見たい)のは、現地のリアルな声であり、現地で取材をしている人たちが見た生の声であり、時に現地で起こっている事実そのものを(特に解説もいらないから)ただ眺めたいだけなのに。

 確かに、ニュースの速報性と拡散力だけを見たら、インターネットには勝てないわけで、既存のメディアとしてはそこに何かしらの付加価値をつけて提供しよう、と考えているのかもしれませんが、テレビが本来持っていたリアルタイム性は、別に失われたわけではないと思うのです。テレビがデジタルになって、チャンネルが増えても、これじゃ意味ないだろう、と思ってしまいます。

 それでも、放送業務がが成り立っている現状に、メディアが甘えていると思います。

 なんだかんだいって、まだほとんどの日本人にとっては、テレビが第1ソースだと思います。外国語ができない人にとっては、日本のメディアを通してしか、ニュースを得ることができないわけです。「インターネット」によって1つ外堀が埋められてしまった感もありますが、まだ「日本語」という内堀によって、その存在価値を必死に守ろうとしているように見えます。それは極端な言い方をすれば、インターネット網を遮断することで国民に目隠しをしようとしている独裁政権の姿と重なってしまうのです。そういう意味では、日本人の外国語能力が熟達してしまったら、一番困るのは日本の既存のメディアかも知れませんね。

 「インターネット」や「外国語」が大きな壁になってしまって、情報格差が生まれるようなことがあるとすると、子どもたちに外国語を教える私たちの目的が変わっていく時代になってきているのかも知れません。もちろん、情報を得たとしても、それをどう理解し、活用するかというリテラシーも同時に身につけていくことが必要なのは当然ですけど。

 昔は、「外国語ができる」ことで「映画が字幕無しで観られる」とか「海外サッカーについて最新情報が得られる」といった、あくまで「趣味的な」メリットしか語られてきませんでしたが、インターネットの普及とともに、実際に海外からの情報がその人たちの生活や人生を変えてしまっている国の様子を見ていると、「英語ができない」ことの「人生における」デメリットが、日本でもリアルになる時代が来つつあるように思います。

 個人的には、最先端のグローバル企業で働くごく一部の人たちの英語力を上げなきゃ、といったことばかり話題になるのは疑問です。それよりももっと多くの「ふつうの人たち」にとっての英語の在り方とか関わり方の意味が変わっていくとしたら、それは切実な問題だな、と思っています。

 そんなことを考えた、深夜のテレビ映像でした。