Do schools kill creativity?

 TEDは前から時々眺めてたんですけど、今日Twitterで流れてきたのが気になって久しぶりに見てみたら、これもよかったなぁ。(TEDのスピーチ、はてなダイアリーに貼れるのかなぁと思って試してみたらダメで、でも調べてみたらTEDはYouTubeにもチャンネルを持っているようです。)

 こういうの好きだなぁ。

 中学生にスピーチの指導をする時にも、「子どもらしい」「中学生らしい」「生意気な」「素直な」ことを語らせたい、って思って指導しています。過去の生徒の作品を振り返ってみても、「中学生だってケータイ必要です!」とか「恋をすれば、人は変われる!」とか「僕がボーズ頭になった理由」とか、大会に出ていた他の「模範的な」スピーチと比べると、ちょっと浮いてたのが多かったかも(笑)でも、みんな言いたいことが言えて、すっきりした顔をしていました。

 とはいえよく考えてみると、ふだんの学校生活では、作文や感想を書かせる時どこか「道徳的」「模範的」な足かせが(教師にも生徒にも)あって、「教育的」という言葉のもとに、生徒たちの本当に言いたいことを表現させてあげられない気もしています。もちろん、人を傷つけるようなものはダメだけど、もっと自由でいいんじゃないか。

 例えばTwitterでは小学生のはるかぜちゃん(@harukazechan)も少し前に問題提起していましたが、読書感想文で「この本は面白くない」と書くことはダメな空気があります。でも、なぜ自分には面白くないのかを理由を添えて書けたら素晴らしいスキルですよね。というか、amazonのレビューを眺めれば(まぁあまり参考にならないものも増えちゃいましたが)すべて礼賛なレビューなわけではない。その中で、「参考になった」と言われるレビューを書くには、作品を冷静に分析して、次に読む人のために何を伝えるべきかを整理して書くような書き手の側の技量が求められているわけで、本当の意味で「伝える力」を育てるために、そういう目に見えないリミッターを外したほうが、いろんな活動ができそうだな、と感じています。

はるかぜちゃんのしっぽ(ω)

はるかぜちゃんのしっぽ(ω)

 たいせつなことや基本的なことももちろん教えます。その上で、生徒と教師という関係性の中で、あるいは教室という枠組みの中で、どんなふうに足かせを外してあげられるかが、ぼくたちの仕事の面白い部分なのかなぁと思っています。学校は「成長する」ための場所なのに、学校に来ることでcreativityを失ってしまうとしたら、寂しいですもんね。

 学校が育てるべき「学力観」が変わってきている、とはよく言われますが、こちらのSir Ken Robinsonのスピーチを観てみると、それは別に日本に限った話ではなさそうです。ただし、じゃあ何が求められていくのかというのは、「外」にいる人が一方的に決めつけるものでも、待っていれば「上」から降りてくるものではなくて、教室で生徒と接している教師自身が一番最初にキャッチしているべきもののような気もします。それを「上」や「外」に伝えていくのも、我々の大切な仕事だと最近は強く感じています。