Can-Doリストは本当に学校評価に馴染むのか?

 今回のテーマは「中学校卒業までに身に付けて欲しい英語力」ということで、意図的にこれまでより具体的なものにしてみました。それゆえに、自分自身でも書くのに少し時間を要したというか、今書きながらも悩むところが多いです。

 で、そのテーマで書くに当たり思ったことを書き出してたら、それなりの量になってしまったので、こちらもメモがわりに残しておきます。(そろそろ、いいから早く本題の記事を書けよ、とお叱りを受けそう…)

 難しいテーマながら、少しずつ書いてくださった記事が集まりつつあります。今日も2件追加しましたが、リンクを貼っていなくても同じテーマで書いてくださっている方も何人かいらっしゃるので、ぜひいろんなブログを巡ってみてください。とはいえ、まだ書いてない自分の記事が後出しジャンケンになるのも嫌なので、他の方の記事はあまりしっかりとは読んでません。でも提示されているキーワードからは、それぞれの方が願っていること、期待していること、決意していることが伝わってきます。

 たぶん記事を読み比べる見えてくる面白そうなことは、「大切だと思われることがたくさんある中でそれぞれの教師が何にこだわるか」という「規準(のりじゅん)」の話でしょう。それぞれのこだわりなどが垣間見られそうですが、それを個人レベルの話に収めないで、共通する部分やそこで語られなかった部分について考える作業が、きっとこの企画のあとに必要だと思います。

 しかし、最近の私はどちらかというと「規準として示したことが、どこまでできることを求めるか」という「基準(もとじゅん)」の方に関心があります。いわゆるCan-Doリスト的な発想とも重なりますね。今度の検定教科書はどこもそんなCan-Doを意識していて、各レッスンのトビラにしっかりCan-Doリストが記載されていたり、チェックリストがある教科書さえありますから、ずいぶん一般的な考え方になってきたみたいですね。

 ただ、あの手のCan-Doリストがいわゆる学校教育における評価・評定に馴染まない、もしくはすぐに取り入れにくいかもと感じるのは、学習指導要領をはじめ学校における指導と評価の枠組みがシラバス準拠デザインなため、「その時期に習ったことがどれくらい定着しているか」を測定するという前提に立っていて、その生徒の習熟度合いが今どのへんで、1年前に比べてどれくらい伸びたのかを測るようなものではない、という課題があります。習ったことがすぐに身につくわけではない(少なくともOutputされるわけではない)という教科の特性を考えると、英語科の評価って本来他教科とはちょっと異なるべきなのかも知れません。

 とはいえ、現実的に考えて、他教科との整合性を無視して、いきなり「じゃ、これからは英語科だけCan-Doで評価するね」という風になることはなかなか考えづらいですね。成績が進学のための評価材料になったりするならなおさらです。私たちは英語教師ですが、同時に学級(学年)担任教師だったりもするわけで、英語に限らずすべての教科に取り組む生徒の姿を支援する立場にあります。そりゃあ英語頑張って欲しい気持ちは強いですけど、あくまでひとつの教科に過ぎませんから。

 学校英語に対しての(主に学校教師以外からの)ご意見やご批判を耳にしていていつも思うのは、こういう他教科とのバランスだったり、そもそも「学校で扱う一教科としての英語」というポジションがあまり前提となっていないものが多いなぁということです。だから、おっしゃることはよくわかるんだけどそれをどうやって学校の中で位置づけましょうか、というところこそ、お知恵をいただきたいと思ってしまったりするんですよね。

 それがよいかどうかは別として、例えば、英語は「教科」からあえて外して「領域」として位置づけ、独自の規準と基準で評価・評定を出す、とか、さらに英語は高校入試からも外して、そのかわり定期的に受験可能な(そして無料の)外部試験でその時点での英語力を測定することにしよう、くらいのドラスティックな変革がない限り、このアンバランスな状態は続いてしまうようにも思います

 英検だ、いやTOEICだ、やっぱりTOEFLだ、と日夜「英語力測定能力ジャスティス大会」が開かれてますけど、公立学校教員としては、それが無料で、何度でも受けられて、授業への波及効果が期待されるものであれば、正直なんでもいいです。ただ、「何がどれくらいできるのか」が(もちろん完璧にでなくていいですから)測れるような試験を作ってくれればいいのにな、○○研究所とか○○省とか○○市とかが。教員の手を煩わせることなくそういうのを自力で作ってこそ、「行政が教育に力入れてる」ってことだと思うんですけどね。

 ということで、個人的には、英語科の評価の枠組みが他教科と切り離されて、学習者の成長過程(orつまづき具合)がわかるようなものに変わっていくことは可能なのか、というところに興味があります。そこを突き抜けないと、せっかくCan-Do的な評価実践や研究成果が集積されて行っても、学校教育の枠組みでうまく活かすことができないように思うからです。