この期に及んでも「小学校英語は、専科教員が教えるべきだ」と考える理由

 地域によってはもう2学期が始まっているかと思いますが、古いカレンダー通りの勤務校は夏休みも残りわずか。当ブログのアクセス数も(統計はgoogle analyticsに切り替わりましたが)お盆明けから少しずつ増えていて、みなさんが2学期モードになってきているのが伝わってきます。今日は町の外国語指導研修会があって、まだ夏休みボケしている私の頭と心のよいリハビリになりました。

 勤務地の小学校は特区指定を受けていて、先行的に「教科としての外国語科」に取り組んでいます。某国立大学の先生を指導者にお迎えして、継続的に、全校で研修に取り組んでいらっしゃって、本当にすごいなぁと思います。(私が突然数学教えろと言われたらこんなに素直にやれないと思うので…)

 今日も、その指導者の先生が来て講演会がありました。いつも面白いお話を聞かせてくださるのですが、今日はより具体的で面白かったです。先生が「小学校の役割」として期待していることとして取り上げたのは、?英語らしい音の枠組みを提示すること、?豊かな言語観を共有すること、の2つです。

 児童生徒の頭のなかに「英語らしい音の枠組み」を創り上げるためには、たくさん聞かせる(見せる)ことが大事というお話ではあるんですが、そのために聞かせる英語は、(1)聞く価値のある意味内容が含まれる、(2)話者の持っている音の流れ、(3)正しい文法、の3つを含んでいることが前提になります。「そうじゃないなら、聞かせないほうがいい」とまでおっしゃります。

 私はずっと頷きっぱなしでした。Unlearnするのが難しいものとして「It's Monday.のIt'sを強く言っちゃう」なんて例を挙げてくださってましたが、それってまさに私が中学校3年間かけてしつこくunlearnしているところです。「アイ!ライク!サッカー!みたいなインチキチャンツ辞めて!」という話も同じです。

 その上で、「自信がないところは無理に英語で言わなくていいんです!」「その代わりキーセンテンスは必死に練習して正しい音で言う責任がある!」と小学校の先生方に訴えているんですが、それならやっぱり専科教員がやるべきじゃないですかね?

 「言語観」についても同じです。安易に「ゲーム」に走ってしまって、本当の意味で言葉のやりとりがなされない「20年前の残念な中学校の授業の焼き直しみたいな小学校の授業」に警鐘を鳴らしていらっしゃいましたが、それが「残念」と気付けるためのは、教える側に豊かな言語観が求められるわけで、それはやっぱり「英語教師としての専門性」が下支えすることじゃないかな、と思うんです。(英語教師でさえ、このへんに無頓着な人が結構いると思います)

 だから、本当に今さらなのもわかってますし、小学校の先生方が頑張って研修されているのもよくわかってますが、敢えて繰り返すと「小学校英語は、専科教員が教えるべきだ」と思います。うちの町のやり方は、本当に素敵だと思うので、その指導者の先生がそうおっしゃらないのが不思議でなりません。

 もちろん、「有識者」として然るべき会議の中心にいらっしゃる先生なので、「大人の事情」はあると思います。会議では専科を主張してくれていたかも知れません。(そんな議事録は読んだ記憶はないですけど) でも、それなら今すぐは無理でも「専科が育つまでは担任の先生方お願いします」ってスタンスにするべきでしょう。(本来は「専科が育ったら始めましょう」だと思いますが) 小学校の先生方の意識を高めるために「責任」を押し付けるのには同意しかねます。

 もうひとつ、研究校にお願いしたいことは、委嘱最終年度の今年の研究発表会では、きっと困難を乗り越えて何かしらの「成果」を発表されると思います。公立学校での研究では「成果はなかった」とは言いづらいですから、それは仕方ないと思うんですけど、その代わりにかかった「コスト」をちゃんと公開して欲しいです。

 その成果が挙げるために、何人教員を増やしてもらったのか、勤務時間外に何時間研修をしたのか、研修主任は何回徹夜したのか、自腹で英語習った人はいくらかかったのか、体調を崩した先生が何人いたのか、替わりに成績が下がった教科はないのか、英語始めた替わりに辞めた学校行事や日課はないのか、その後生徒が荒れちゃってないか、などです。

 文部科学省にとっては(自分の腹は痛まないので)そんなコストは痛くも痒くもないでしょうし、報告書に書いてもちゃんと取り上げてもらえるか心配ですが、こちらには大問題です。他の学校に広げるなら、ここをちゃんとバックアップして欲しい旨を、訴えて欲しいです。それこそ、委嘱校の先生方の「責任」だと思います。