Rという言語を学びながら、言語習得の「厳しさ」と「ゆるさ」を考える

 今日は、千葉に統計の勉強に来ています。

 

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 とても綺麗な街並みなのですが、人も少ないのでなんとなく非現実的な感じです。

 

 さて、統計の勉強とは言いましたが、正確に言うと、統計分析のフリーソフト「R」の使い方を叩き込まれる集中的に学ぶ勉強会に参加しています。

 

 統計自体は、修士課程に在籍していたときに基礎的なことは勉強しましたし、自分の修士論文ではANCOVA(共分散分析)が必要なのだなと考え、先生からお借りしていたPCに入っていたJMPというソフトの使い方を必死に検索しながら格闘した思い出があります。

 

 今回は、ソフトに自動でやってもらうばかりではなく、自分でプログラムを組んでデータを処理できるようになりたいと思って、R言語を学びに来ているわけです。

 

 で、全4日間の日程の折返しを迎えて感じたことは、プログラミング言語「R」は、やっぱり「言語」なんだなぁ、ということ。「言語」って言ってるんだから、当たり前なんだけど、研修を受けながらどうしても言語の習得過程に思いを馳せてしまうのは職業病でしょうか。

 

 1日目は、いろいろ話を聞いても、見様見真似でプログラムを入力しても、なんだかよくわからない感じ。先生の言うとおりに言えば通じるよね、という具合に、ただ同じ文字列を入力していれば(打ち間違えなければ)ちゃんと望み通りの結果が表示されます。言ってみればやらされてる感が強くて、満足感はそれほど高くありません(余裕がないだけ、とも言う)

 

 これも考えてみれば当たり前で、別にこのデータをそう並べることを自分が望んでいるわけでもないので、成功しても感動は薄いわけです。

 

 でも、面白いなぁと思ったのは、2日目になってなんとなくプログラムの構造がわかってきたからか、プログラムが正常に動かない!なんて事態になると、なんだか無性に燃えてくるんです。「ああ、ここにcが抜けてたのか!」「ここを入れ子にすればいいんだ!」みたいに独り言を言ってる自分に気づきます。

 

 これだって練習問題をやってるだけなので、必ずしも「自分のやりたいデータ処理」をしているわけでもないんだけど、知らないうちに「このプログラムを走らせること」というタスクに夢中になっているので、そういうリアリティーを忘れちゃってるんですよね。

 

 ここには、プログラムというものにはちゃんとしていれば動くけど、1つでもミスがあると動かないという「厳しさ」と、同じことを実現するのに、やり方は複数あるという「ゆるさ」があることが、根底にあると思います。どっちかだけだとすぐに諦めたり、飽きたりしてしまいそう。

 

 これって、まさにコミュニケーションじゃないですか。

 

 ちゃんと通じるのか、通じないのかというリターンが得られる「厳しさ」と、人や場面によっていろんな言い方が許容される「ゆるさ」の両方があることが、失敗を恐れずにコミュニケーションしてみようと思える土台になるんじゃないかな、と体験から考えていました。

 

 まぁ、他にもどういうタイミングで例を示されると効果的か、とかなんとなく言語習得過程を意識しながら自分の受けている研修をメタに分析している自分が面白いのですが、それはつまり私が新しい言語を学んでいるんだなぁ、と実感できる瞬間でもありました。

 

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 ということで、まだまだ研修は続くわけですが、4日目が終わったときには、辞書を片手にコンピュータと最低限のコミュニケーションが取れるようになっていたいな、と思います。