統合的な活動ってどう評価するの?

 昨日は某所でお話ししてきました。

 COSMOSをご紹介したんですけど、やっぱりこの活動は口頭でご説明して、しかも実際に体験してもらわないと、この活動が持っているわくわく感が伝わりにくいですね。そういう意味では、初めてこの活動をご紹介する機会をいただけて、本当によかったです。ご参加いただいたみなさま、どうもありがとうございました。

 これまでにCOSMOSについてブログで書いたものはこちらです。

COSMOS(その1)はじめに

 また、時間の関係で概要だけお話した「ポケモン・ライティング」の説明はこちら。

ポケモン書けるかな?(その1)

 さて、COSMOSは「書く」→「読む」→「書く」を繰り返す、いわゆる「統合的な活動」ですけど、こういう活動は評価の位置づけが難しいですね。「書く」能力なのか、「読む」能力なのか。

 何年か前に研究授業でCOSMOSをやったときも、研究協議にて「(指導案上の位置づけとして)評価はどうするの?」という話題になりました。ぼくは「別にしなくてもいいんじゃない?」とお答えしたんですけど、やや微妙な空気に…。まぁ、「どうしても評価しろ」といわれるなら、「関心意欲態度」で評価しますけど、そもそも匿名でやらせているので、プロダクトそのものからは評価できませんから、あくまで取り組む姿勢を観察して評価するレベルですけど。

 イマドキな研究授業では、きっとこういう「統合的な活動」を公開される方が多くなりそうですけど、評価方法についてどう位置づけているのかは興味深いです。みなさん、ご苦労されているんじゃないかと思います。

 昨年・今年はいろいろな人のお話を聞く機会が多いので、ぼくもことあるごとに、いろんな「偉い人」にこのことについて質問してるんですけど、みなさん答えがバラバラです。「何かしらのプロダクトが出てくるアウトプット的な後半の活動の出来で評価すべし」という方もいれば、「教師がどっちの活動に重きを置くかによって変わる」という方もいます。ぶっちゃけ文科省国立教育政策研究所でも意見がまとまっているわけでもないようです。

 ま、教師それぞれでいいんじゃね?ってのが本音ですけど、こういうものの「作法」やら「流派」やら「暗黙の了解」やら「公式見解」やらに振り回されたり、追われたりするのが現場の教師のリソースを無駄に削いでいるようには思います。統一して欲しいなら「偉い人」が考えをまとめて提示するべきだし、教員一人ひとりに考えて欲しいなら、あまり強制(矯正)はしないで欲しいところです。

 気になるのは、「観点別評価」が導入されたことで、少なくとも多くの中学校教師には観点を絞って評価したりテストを作ったりする文化が広まってきたように思うのですが、この新しい「統合的」な流れにより、また「何測ってるんだかよくわからない問題」みたいなのが増えてしまいそうなこと。

 もっとも、教室では「観点別!観点別!」と言われて、そういう活動・評価が多くなっているというのに、公立高校の入試問題はずいぶん「総合問題」オンパレードだったりするのが不思議なんですけどね。そういうギャップを埋めるために「統合的」「総合的」という言葉が取り入れられたのかもしれないけど、「お言葉」によって一気にどっちかに傾くことの多い世の中の流れがちょっと怖いです。ほどよいバランスで行きたいものです。